冨田渓仙(とみた けいせん)
1879年-1936年 福岡県出身
自分のスタイルで個性を出した画家
冨田渓仙は12歳の頃から絵を習い始めました。はじめに教わっていたのは、伝統にならってお手本を写す方法です。絵を描く技術を身につけることはできましたが、もっと自由に描きたいと思った渓仙は、京都へ学びに行きます。京都では先生のもとに住み込み、その頃の画家の多くが取り組んでいた見たままを写しとる描き方を学びますが、これもまただんだんと物足りなくなっていきます。
先生から独立して自分の表現を探り続ける中で、奈良・平安時代の仏教の美術や、中国の伝統的な絵画の流れをくむ「南画」を研究したり、キリスト教や老子について勉強するなど自分の内面を成長させる努力をしたりしました。また、美術コレクターの内貴清兵衞と交流を深め、芸術について話し合ったり、作品についてアドバイスをもらったりもし、表現に対する考えを深めていきました。
表現を追求するために重要だったことに、台湾や中国への旅行もあげられます。日本国内では、北海道や紀伊半島、沖縄なども訪れています。旅をしながらたくさんスケッチを描いていますが、それだけが旅の目的ではなく、旅先で自分を見つめ直す機会にしていたようです。旅行をまとめた画帖には、旅先の風景や出会った人々が自由な生き生きとした墨の線で描き出されました。
《琉球帖》1917年 絹本着色、墨書 各26.0×37.8cm 福岡県立美術館蔵 |
型にはまらない自在な筆の動きや、豊かな色づかいの個性的な表現が高く評価され、有名な日本画家・横山大観に誘われて日本美術院にも参加しました。また、日本美術院の展覧会である「院展」(この展覧会は現在も毎年開催されています)でさまざまな題材で絵を描きました。
左から《波に日の出図》、《黄檗摘茶図》、《虎渓三笑図》、《淀城》、《渋柿に猿図》、《枯木寒鴉図》 1917年 絹本着色 各171.3×41.6cm 福岡県立美術館蔵 |
フランスの詩人ポール・クローデルと知り合い、詩画集を合作したこともありました。それは、日本の自然や暮らしにあらためて目を向ける機会になったといわれています。クローデルのものごとの捉え方に触れて、渓仙の絵にも内面から湧き上がる世界があじわい深く表現されていきます。また、渓仙自身も俳句をよむことがありましたが、後年には詩を作ることもしています。
《かひこの森》1921年 絹本着色 59.8×68.9cm 福岡県立美術館蔵 |
渓仙の父が万葉集の研究をしていたこともあり、渓仙も万葉集に関心を持っていました。歌の中に登場する植物を探し、よく観察して描きながら、その特徴をつかみました。観察のために植物を自分の庭に植えることもありました。風景や人物などを主に描いていた渓仙ですが、こうした観察を元に、次第に花鳥画と呼ばれる草花や鳥の絵を描くようになります。それまでの自由で大胆さもあった表現は、詳細な観察に基づいた細やかさを増していきますが、それぞれの植物の形や色の特徴を生かして作り上げた世界を描きました。
《栂尾晩秋》1934年 絹本着色 46.5×51.5cm 福岡県立美術館蔵 |