古賀春江(こが はるえ)
1895年-1933年 福岡県出身
短い画家人生の中で、新しいさまざまな表現に挑戦した画家
古賀春江が画家として活躍したのは、大正から昭和のはじめです。明治から大正、そして昭和へと時代の流れに合わせて都市の文化が発展・成熟し、その後の戦争に向かって世の中が大きく変わっていった時代でした。ヨーロッパの新しい芸術運動が日本にも紹介され、若い芸術家たちは個性を大切にし伝統にとらわれない表現に挑戦するようになっていきました。
絵画の勉強を始めた頃の春江は、水彩画で見たままを描き写す写生の絵を多く描いていました。その後も水彩画は続けますが、画家としての力を認めてもらうために、油絵にも取り組むようになります。そして「でたらめの画」を描きたいと、写生ではなく、頭の中でイメージして構成した情景を描くようになりました。
《竹藪》1920年 水彩・紙 45.5×60.5cm 福岡県立美術館蔵 |
春江は38歳で亡くなったので、画家として活躍した期間は長くはありません。しかし、その間にヨーロッパの様々な新しい芸術表現を吸収し、作風を変えながら自分の表現を探究しました。新しさを求める若い画家たちと「アクション」というグループを結成し、仲間から刺激を受けながら、それまでの常識や形式にとらわれない自由な表現を探し続けました。
油絵を描き始めた頃、海外から入ってきた「キュビスム」*1や「未来派」*2と呼ばれる芸術運動に触れて、その特徴である幾何学的な形で表されたモチーフや力強さが春江の絵にも現れます。この頃の作品には人物を組み合わせて画面を構成する群像も多くみられます。
《埋葬》1922年 水彩・紙 37.4×49.8cm 福岡県立美術館蔵 |
「アクション」が解散しても、春江は新しい表現を探し続けます。次に試みたのは、ドイツで活躍した画家パウル・クレーのような表現でした。それまではテーマを具体的に描いていましたが、空想的なものなどが増えていきます。いくつかのモチーフを組み合わせ、やわらかな雰囲気の夢やおとぎ話のような世界観が描き出されました。
《窓》1927年 油彩・画布 90.5×72.7cm 福岡県立美術館蔵 |
その後は、雑誌や絵葉書から切り取ったモチーフをバラバラに並べて組み合わせたような描き方をしました。そうすることで、現実の世界とは様子の違う不思議な世界を描き出したのです。古賀春江は「シュルレアリスム」*3と呼ばれる表現を日本でいち早くおこなった画家の一人でした。
《海》1929年 油彩・画布 130.0×162.5cm 東京国立近代美術館蔵 Photo: MOMAT/DNPartcom 撮影:© 上野則宏 |
また、春江は画家として絵を描くのと同時に多くの詩を作りました。スケッチブックには、模写やスケッチだけでなく、短歌や詩が多く残っています。1931年には『古賀春江畫(が)集』を出版し、その中で自分の31点の作品を、それぞれの詩で解説しました。
*1キュビスム
20世紀の初めにピカソらが始めた試みで、対象を一度ばらばらに分解してから、もう一度組み合わせた表現などに取り組んだ。名称は「立方体」という意味のフランス語からつけられ、「立体派」と訳すこともある。
*2未来派
20世紀の初めのイタリアでの芸術運動。時代の最先端を意識して、機械や人間の力強い動きや、スピード感のある表現を行った。キュビスムの影響から、イメージを複数にコピーしたり、重ねて並べたりするなどの方法で表現した。
*3シュルレアリスム
日本語では「超現実主義」と訳す、20世紀に世界的に広まった芸術運動。美術以外の分野にも大きな影響を与えた。人間が意識できる現実の世界を超えたものを追求するために、さまざまな表現技法が試された。