柏崎 栄助(かしわざき えいすけ)

1910年-1986年 秋田県出身

地域と、そこに生きる人々の生に向き合ったデザイナー
 
朱漆香水入、クロトン文色漆小物入、ガラス鉢「ゆれる器」
手前左から《朱漆香水入》1935年頃、《クロトン文色漆小物入》1934-1942年、後ろ《ガラス鉢「ゆれる器」》 1970年頃(いずれも福岡県立美術館蔵)
柏崎栄助は秋田県に生まれました。中学を卒業した後、沖縄県で働いていた親戚の生駒弘(いこまひろし)を訪ねたことをきっかけにして、図案家(今でいう「デザイナー」)になろうと東京の大学に入学します。大学で学んでいる間も、柏崎はしばしば沖縄県をおとずれ、生駒のもとで漆器のデザインに取り組んでいました。大学生時代に考えた香水瓶入れやパフ入れなどのデザインは、新しいアイディアにもとづくとてもモダンでおしゃれなもので、それから後も長く愛されることになります。

朱漆香水入
《朱漆香水入》1935年頃 木胎朱漆塗、堆錦 6.4×13.5cm 福岡県立美術館蔵
 
朱漆小物入
《朱漆小物入》1935年頃 木胎朱漆塗、堆錦 7.0×10.6cm 福岡県立美術館蔵
※当時はパフ入れとして売られていたようです
学生のときにフランスの香水メーカーから賞をもらった柏崎は、その賞金をもって、ヨーロッパに渡ります。大学を卒業した翌年の1935年、柏崎が24歳ころのことです。パリ(フランス)では万国博覧会に通い続けたり、ウィーン(オーストリア)では有名な建築家でありデザイナーでもあるヨーゼフ・ホフマンの授業に出席したりとヨーロッパの各地をめぐりました。ホフマンの授業は、道具も食べ物も持たせずに森の中に生徒たちを置き去りにして、生きるために必要なものは何か、生きるとは何かを学ぶものであり、強く印象に残ったそうです。後に柏崎はその思い出を何度も語っています。

1938年頃にヨーロッパから日本に戻ってきた柏崎栄助は、しばらくの間は、沖縄で漆器のデザインに取り組んだり、静岡でアルマイトという新しい金属を用いたデザインに取り組んだりしていました。しかし、戦争がだんだん激しくなり、漆器などはぜいたくだと言われるような時代になっていきます。

アルマイト貼色漆手箱
全て《アルマイト貼色漆手箱》(1943年頃 木胎漆塗、アルマイト板 3.2×6.4×10.0cm 福岡県立美術館蔵)
戦争が終わって、世の中が少しずつ落ち着きはじめた1949年、柏崎は妻・柏崎たゑの故郷である福岡県に引っ越してきます。福岡では大学で多くの学生にデザインについて教えたり、デザイナーたちのグループを作ったり、優れたデザインを扱うお店の立ち上げに関わったりしました。そして、福岡の筑後地方のイグサ産業や新宮市のガラス産業など、その地域の特色となる産業で働く人々と様々な新しい試みに取り組みました。それらの取り組みのなかで、いくつもの色をつかったグラデーションが美しい《筑後花筵》(ちくごはなむしろ)や、沖縄の海をイメージして作ったと言う《ゆれる器》などが生まれました。

筑後花筵
全て《筑後花筵》(1965-1970年 イグサ 87.2×177.0cm 福岡県立美術館蔵)
ガラス鉢「ゆれる器」
《ガラス鉢「ゆれる器」》 1970年頃 ガラス(サンドグラス) 15.5×22.0cm 福岡県立美術館蔵
同じ九州の長崎県ではその土地でとれる土を使った磁器や陶器の研究にも関わりました。
白磁水差
《白磁水差》1965年頃 白磁 28.0×13.1cm 福岡県立美術館蔵
また、福岡に移り住んだ後も、沖縄をしばしば訪れ、漆器のデザインに取り組みました。この頃の沖縄は、アメリカ合衆国に統治されていたこともあり、この時期のデザインにはアメリカの軍人やその家族たちに売ることを意識したデザインもたくさんあります。沖縄の伝統的な織り物の模様などを取り入れたデザインもこの時期のものです。

螺鈿文漆手箱
《螺鈿文漆手箱》1965年頃 木胎黒漆塗、螺鈿 8.2×19.3×24.5cm 福岡県立美術館蔵
柏崎栄助は、毎年、沖縄を旅しましたが、そのときの日記や家族にあてた手紙が残っており『沖縄日記』という本にまとめられています。その本の中には柏崎の次のような言葉が記されています。

「人間が生きることからデザイナーの仕事は始まるのだ。それを、この身でしっかり受け止めたい。社会生活に本当に役立つものを作りたい。」

沖縄や福岡、あるいは長崎や静岡など、さまざまな土地を訪れ、その土地で働く人々とともに新しいデザイン、新しい製品を生み出していきました。柏崎のデザインが、今もなお、古びることもなく多くの人に好まれるのは、それぞれの土地の人々の「生」と「社会」に向きあって生み出されたものだからなのでしょう。