赤星 信子 (あかぼし のぶこ)
1914年-2015年 福岡県出身
赤い色を描き続けた画家
赤星信子は絵や音楽が好きな子どもでした。福岡で通っていた学校の絵画クラブで絵を描き始め、画材店で開かれる研究会にも参加していました。展覧会に入選したことで画家になることを決心し、東京に絵を学びに行きます。
絵の学校に通っていた頃から、けしの花をモチーフに描くようになります。けしの花は色とりどりで、花びらは平らでうすい形をしています。それが重なり合って風に揺れている様子にひかれ、けしの花は信子が晩年まで描き続ける絵の題材となりました。
学校を卒業した後も東京で絵を描いていましたが、日本では戦争が始まり、社会は落ち着かなくなっていきます。もっといい絵を描こうと気持ちを強く持つことや、画家仲間でもあった赤星孝の存在が、不安な生活を送る中での支えでした。次第に戦争の状況が悪くなってくると、信子は身を守るために福岡に戻り、孝と結婚します。
結婚して子育てや家事をしながらも、信子は孝と協力し合い、絵を描くことをやめませんでした。精力的に描き続け、展覧会にもほぼ毎年のように新しい絵を出しています。
信子の絵は、線よりも色によってモチーフをとらえて描いているのが特徴的です。初めの頃は、具体的なものを描いていましたが、絵の具を厚く塗り、だんだん何を描いたのかはっきりしない色や形が絵の中に描かれるようになっていきます。
《満月》1958年 油彩・画布 116.0×90.5cm 福岡県立美術館蔵 |
40代後半ころからは、大きなサイズの絵にも挑戦するようになりました。黒が効果的に使われるようにもなり、絵の中での色の対比がくっきりとしていきます。色彩そのものをテーマとして描くこともありました。
《赤い構図》1974年 油彩・画布 129.4×161.4cm 福岡県立美術館蔵 |
そのようななか、闘病していた孝が亡くなります。その翌年に描いた絵はそれまでの絵とは違いました。
それまでも孝の絵と似た特徴を持つ絵もありましたが、《花だより》では明らかに孝が描く絵のような線や色の使い方をしています。信子はこの絵について、「あなたへの唯一の贈り物、精魂こめて描いた花の便りだったのです」と述べています。
《花だより》1984年 油彩・画布 129.7×193.2cm 個人蔵 |
孝が亡くなった後、「感謝をこめて精一杯報いるために絵を描き続ける決心をしています」と、信子はさらに熱心に絵に取り組んでいきます。
信子の絵は鮮やかな色合いが印象的ですが、特に晩年は赤い色にこだわりました。
ただ赤い絵の具一色で描くのではなく、絵の具を混ぜ合わせて何度も塗り重ねたり、布や手をつかって擦り込むように描いたりと試行錯誤をし、奥行きのある豊かな赤色を表現しています。
《赤い空間》1988年 60.6×72.7cm 油彩・画布 個人蔵 |
「赤は生命の色、だから赤い絵を描いていると、自分の生命力も湧いてきて、どんどん描きたくなる」と、赤という色に喜びや悲しみなどのさまざまな気持ち込めて描きました。