柳瀬正夢(やなせ まさむ)

1900年-1945年 愛媛県出身

時代に向き合った多彩な美術家

 

柳瀬正夢は愛媛県松山市で生まれ、11歳で家族とともに福岡県北九州市の門司に移ってきました。12歳のときに見た展覧会で絵画に興味を持ち画家になりたいと思った正夢は、14歳で東京で絵画の勉強を始めます。翌年には地元の門司で個展を開いたり、15歳で東京の展覧会に入選するなど、早くから画家として活動を始めました。

果樹島園
《果樹島園》1918年 油彩・画布 83.0×136.0cm 福岡県立美術館蔵

正夢が活動を始めた頃の日本では、海外から入ってきた新しい芸術表現に影響を受けて美術運動が起こります。正夢もそれらに参加し、仲間とともにグループを立ち上げ、展覧会で作品を発表したり、雑誌を作ったりしました。
10代から20代の時に描かれた正夢の絵画は、作風がどんどん変化していきます。そこからは海外のさまざまな表現に触れ、次々と自身の新たな表現方法を試みていたことが想像できます。

《波止場のI氏》1922年 油彩・画布 72.5×49.0cm 福岡県立美術館蔵
《五月の朝と朝飯前の私》1923年 油彩・画布 44.0×44.0cm 武蔵野美術大学 美術館・図書館蔵

正夢は自分の作品の中で、社会に対する考えや思いを表そうと試みていました。世の中を風刺する漫画を描いたり、労働者をテーマにした美術運動に加わったり、他にもポスターや舞台美術を作ったり、本の装丁をしたりしました。さまざまなジャンルで活躍する一方で、油絵を描くことはなくなっていきました。
この頃から、丸に斜線が特徴的な「ねじ釘」のしるしが自身のサインとして作品に描き加えられています。ねじ釘は目立たないところに使われますが、機械などを構成するのに重要な役割を持っています。正夢は自分自身も社会の中でねじ釘のようなはたらきをしたいという思いをこめて、このサインを使っていたようです。

《飢えたる農民に労働者の手をのばせ!》ポスター 1934年 印刷物 54.0×38.9cm 武蔵野美術大学 美術館・図書館蔵

正夢が精力的に活動していた頃の日本は、一般市民の権利を求める社会運動が活発となる一方で、政府は人々が力を持つことを警戒していました。政治を批判したり、人々の感情に強くうったえるような表現は、規制されるようになります。正夢が参加した運動も、厳しい取り締まりなどでだんだんと小さくなっていきます。
正夢自身も治安維持法*1 違反の疑いで逮捕され、有罪判決を受けることになります。保釈後はそれまでのように思想を表す活動はできなくなりました。そのような中で、正夢はもう一度油絵での表現に取り組むようになります。さらに、俳句や写真、子ども向けの雑誌やコミックの連載など、さまざまな表現方法に力を注ぎました。

《ダイドウノセキブツ》『子供之友』26巻3号[原画] 鉛筆、水彩・紙 21.4×37.8cm 武蔵野美術大学 美術館・図書館蔵

新たな活動に取り組んでいた正夢でしたが、太平洋戦争が終わる年の5月に新宿で空襲に遭い45歳で亡くなっています。

 

*1 治安維持法:当時の政府にとって都合の悪い運動を取り締まるために定められた法律。社会主義や共産主義活動を抑圧するなど思想弾圧の手段として濫用された。1945年に廃止。